再就職が決まった。
病院で会った社長の会社にお世話になることになった。
全く、人の縁とは解らないものだ。
あの病気騒ぎが無かったら、こんなに早期に決まらなかっただろう。
しかも、家から10分と言う近さだ。
(これなら保育園に送って行った後でも始業時間に間に合う)
再就職しても、相変わらず朝の時間は忙しかったが、会社が近いのは良い。
特に夕方の時間が増えたのが良かった。
子供達の1日の出来事を聴いてみたり、遊んだり、自分の心にも余裕が出てきた。
逆立ちの練習、ブリッジ、とび箱、全て付き合った。
「保育園で、お勉強したことやってみて?」
と言うと・・
何やら鉛筆を持って点と点を線でつないでいる?
ジグザグを書いたり、○を書いたり
十字を書いたり・・・・。
僕にはただの落書きにしか見えなかったが
これが文字(カタカナ)の練習の第一歩なのを後で知った。
まだ、この時点では全く家では勉強と名の付くものはやらせていなかった。
保育園の子供の中には英語を課外で学ぶ子もいたがウチの子は嫌がった。
何故なら、英語の先生が苦手らしい・・。
当時の二人にとっては「声と体が大きい」外国人の先生が 怖かったのだろう。
2才の頃なんて、帰りに「good-bye」と声を掛けられただけで泣き出してしまった(笑)
幼児期の英語教育には賛否両論がある。
「早ければ早い程良い」と言う人も多い。また
「母国語もまだまだなのに・・母国語がある程度理解出来てから!」と言う人もいる。
僕の考えは後者だ。
決して「早くから~」の考えの人を否定するつもりはない。むしろ小さな頃から英語に触れることは素晴らしいと思う。遊びの範囲の英語なら子供も楽しいだろう。
・・・・だからと言って、将来、英語が話せるような人になれるとは限らない。
失敗例はたくさん見てきた。
しっかりとした日本語を話せるようになってからでも充分に間に合う・・焦ることはないと思う。
それよりも、「計算が速くて算数が得意な子になればいいなぁ」と思っていた。
算数問題を素早く解く能力があれば、語学も
きっと大丈夫!・・が、僕の考えだ。
保育園で行っている「ヨコミネ式」の学習。
それだけで充分に思う。
本人達が勉強が嫌いならば、やらなくても良い。そんな気持ちだった。
(あまり勉強、勉強と言う親にはなりたくなかった)
しかし、本人達がやりたいと思うのなら
どんな事でも応援するつもりだ。
(親なら当然ですよね!)
自分が子供の頃を思い出した。
今、思えばかなり悲惨だったと思う。
僕は三人兄弟の末っ子に生れた。
一番上の姉は14年、兄は12年年上だった。
子供の頃は両親から溺愛され、「可愛い、可愛い」で育てられた。
まるで人形のように・・。
毎日の着替えは母が着替えさせ、食事も赤チャンのように母が「あーん、して!」と言って食べさせてくれたのを覚えている。
だから、小学校入学する時期になっても何にも自分で出来ない子供になってしまった。
学校で体育の時間、体育着に着替える事が出来ずに、ただ、ただ、泣いていたのを思い出す。
(着替る方法を知らなかったのだ)
だから、友達からは馬鹿にされた。
今の時代なら完全にイジメの好対象だろう。
そんな溺愛された子供の僕に大きな変化が訪れた。
2年生の時は姉。4年生の時には兄が結婚した。僕は小学3年生で姉の最初の子の叔父になったのだ。
両親にとっては初孫。
孫の誕生に両親はとても喜んでいた。
翌年には兄の子が誕生した。
・・が、同時にそれは僕にとっては≪とっても辛く寂しい≫ことの始りだった。
今まで僕に向けられていた親の愛情が、ほとんど孫達に向けられるようになったからだ。
下に兄弟が生まれたケースとは全然違う。
両親は孫に夢中になった。
可愛かったのだろう。
高学年の頃には、すっかり親から構ってもらえなくなってしまった。
親の関心を自分に向けて欲しかった。そんな僕には、勉強しかなかった。
とにかく成績を上げて、親から注目されたかった。そして何よりも褒めて欲しかった。
毎日、たくさん勉強したものだ。
やがて、成績もかなり上がった。
「やれば出来る」を実感していた。
・・が、しかし親は全く関心を示さなかったのが悲しかった。
同時に兄と兄嫁からの嫌がらせも始まった。
何かが無くなると全て僕のせい。
「早く家から出て行け!」が彼等の口癖だった。(僕が邪魔だったのだろう)
そして、口応えしようものなら必ず殴られたのだ。
(前歯が2本折られたこともあった)
・・それでも兄を責めない両親。
甘ったれで何も出来なかった自分が、いつしか「早く家から出たい」と思うようになった。
それには勉強するしかない。
勉強することによって、職業選択の幅が広がることも小学生ながら分かっていた。
中学1年になり成績の順位が出る。
320人中、上位の成績。
高校は進学校を希望していた。
中1の3月に両親に志望校を言った。
すると、父が大反対!
「お前は進学校を出て、大学に行って何になりたいんだ?」
将来何になりたいのか、ハッキリと分からなかった自分には答えられなかった。
「目的がない奴が大学なんて行くな!」と父。
意外な父の反応に何も言えない自分・・。
すると父は・・
「工業高校へ行け!嫌なら家から出て行け!」
更に、「お前に大学に行かれると、金が掛かるから老後に旅行も行けなくなる」
この、信じられない言葉にはショックだった。(親の言う言葉ではないと思った)
悔しくて、涙か止まらなかった。
「だったら、僕を産まなければ良かったのに・・。」と何度も思った。
「自分は、この家の厄介者なんだ・・。」
これ以降、勉強することは辞めた。
学校もサボって遊んだ。
すると、成績は凄い勢いで直ぐに落ちた(笑)
200番近くも下がってしまった。
こうなると工業高校も危なくなる。
それでも、僕は受験勉強なんてしなかったのだ。(親の言葉でやる気が失せたのだ)
こんな状態でも、僕は工業高校に入学出来たが、全く嬉しいとは思わなかった(笑)
高校入学後のある日、小学校時代からの友達の家に遊びに行った時に進学校の教科書を見た!・・あまりにも内容が違い絶望感で死にたくなったものだ。
だから、入学しても学校は面白くない。
特に興味のない専門教科が大嫌いだった。
自分の希望通りに進めなかった悔しさが、毎日ように心の奥に渦を巻いていた。
それでも、仲の良い友達がいたから3年間辞めずに通うことが出来たのだ。
やがて社会人になっても
「あんな親のところに生まれなかったら・・」と、いつまでも親を恨んでいた。
僕が30の時、父は死んだ。
涙も出なかった。
その8年後、母も亡くなったのだが
母は亡くなる半年前に40近くなった僕に謝った。・・・・
「大学に行かせてあげなくてごめんね。あの時の達也の悔しそうな顔は未だに忘れられない。本当にごめんなさい」 と泣きながら謝ったのだ。
僕はその言葉で、全てを許した。
でも、あの時の悔しさは今も忘れていない。
自分の子供には、僕のような思いは絶対にさせたくない!
だから、親になった僕は子供のやりたいことは何でも応援することにしている。
子供の意見は頭から否定しないつもりだ。
そして何かの成果が出れば必ず褒めよう
別に、優秀な人間にならなくても良い。
子供達にはどんな環境でも幸せに生きて行ける人になって欲しいと願っている。
親の言葉次第で子供は変わる。
自分が身を持って経験したから、僕には良く分かる。
子供のやる気を出すのも、無くすのも
親の普段の言動だ。
僕は自分の親のような子育ては決してしたくない。だが、自分が出来なかった事を押し付けるつもりもない。
ハッキリ言って、自分の親とは真逆の子育てをしている。
スケッチブックにたくさんの「文字の卵達」を
書いている子供達を眺めながら、自分の過去を思い出していた。